ワタリウム美術館で開催されている『クマグスの森 南方熊楠の見た夢』へ行ってきました。自らの精神世界や身体、家族や地域社会の身近な生活にも目を向けて精緻な観察を続け、生涯尽きる事の無かった知識欲、探究心、行動力には脱帽です。
南方 熊楠
子供の頃から、驚異的な記憶力を持つ神童だった。また常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を越える本を見せてもらい、それを家に帰って記憶から書写するという特殊な能力をもっていた。何日も家に帰らず山中で昆虫や植物を採集することがあり、「てんぎゃん(天狗)」というあだ名もあった。旧制中学入学前に『和漢三才図会』『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』『太平記』を書き写した筆写魔(ただし、『和漢三才図会』のみは筆写完了は旧制中学在学中)であり、また、旧制中学在学中には漢訳大蔵経を読破したといわれる。
彼のその学風は、ひとつの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、土蔵や那智山中にこもっていそしんだ研究からは、曼荼羅のような知識の網が産まれた。1892年にはイギリスにわたって、ロンドンの天文学会の懸賞論文に1位で入選した。大英博物館東洋調査部に入り、資料整理に尽くし、人類学・考古学・宗教学などを独学するとともに、世界各地で発見、採集した地衣・菌類に関する記事を、科学雑誌「Nature」などに次々と寄稿した。帰国後は、和歌山県田辺町(現、田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を、広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較人類文化学を展開した。菌類の研究では新しい種70種を発見し、また、自宅の柿の木では新しく属となった粘菌を発見した。民俗学の研究では、『人類雑誌』『郷土研究』『太陽』『日本及日本人』などの雑誌に数多くの論文を発表した。
彼にまつわるエピソードは膨大である。エキセントリックな行動が多く、酒豪であったが、半面、酒にまつわる失敗も少なくなかった。語学にはきわめて堪能で英語、フランス語、ドイツ語はもとよりサンスクリット語におよぶ19ヶ国語の言語を操ったといわれる。また、田辺では、1906年末に布告された「神社合祀令」によって神社林(いわゆる「鎮守の森」)が伐採されて生物が絶滅したり、また生態系が破壊されてしまうことを憂い、1907年より神社合祀反対運動を起こした。今日、この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の先がけとして高く評価されており、その活動は、2004年に世界遺産(文化遺産)にも登録された熊野古道が今に残る端緒ともなっている。
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