2010年8月6日金曜日

65 Years Ago

65年前の今日、歴史上最大の大量殺戮という悲惨な出来事が起こった。早朝、広島市内には警戒警報が発令されていて、その警戒警報が解除された44分後の午前8時15分(実際は8時14分)原爆投下用に改造された長距離爆撃機、「B29 エノラ・ゲイ(44-86292号)」が、広島上空に現れ、高度9600m(日本の記録では8500m)より、原爆が投下。

そして、その43秒後に、広島物産陳列館(原爆ドーム)から東へ約160m先にある「島病院」の上空580mで、この原爆は炸裂しました。原爆炸裂時の地表面の温度は、3000度とも4000度とも言われており、半径2km圏内の建物がすべて炎上し、2.5km付近の家屋まで倒壊したと言われています。
 
当時のエノラ・ゲイの航空日誌には、「8時15分―原子爆弾投下。43秒後に閃光。衝撃で機体傾く。・・・巨大な原子雲」「9時―原子雲が見える。高度12000m以上」の文字が記されていた。

原爆によって死亡した人の数については、現在も正確にはつかめていませんが、放射線による急性障害が一応おさまった昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したと推計されています。

爆心地から1.2キロメートルでは、その日のうちにほぼ50%が死亡し、それよりも爆心地に近い地域では80~100%と推定されています。また、即死あるいは即日死をまぬがれた人でも、近距離で被爆し、傷害の重い人ほど、その後の死亡率が高かったようです。

更にこの3日後の8月9日、午前11時2分。プルトニウム型原子爆弾が、長崎市の北部(現在の松山町)へ投下されました。上空約500メートル附近で炸裂した原子爆弾は、目がくらむような光を発し、巨大な火の玉となり、一瞬にして爆風、熱線、放射線を放ちました。広島同様長崎の街は破壊され約7万3千人、当時の人口のおよそ3分の2が死傷しました。

毎年この日になると日本人として気にかけるし、今後同じ様な出来事が起きない事を信じてる。

だけど悲しいかな世界では未だ核を保有している国もあり、どこかで今日も戦争が起きている。。。

UNTIL THE PHILOSOPHY WHICH HOLDS
ONE RACE SUPERIOR AND ANOTHER
INFERIOR
IS FINALLY AND PREMANENTLY
DISCREDITED
AND ABANDONED
THAT UNTIL THERE ARE NO LONGER
FIRST CLASS AND SECOND CLASS CITIZEN
OF ANY NATION
UNTIL THE COLOUR OF A MAN SKIN
IS OF NO MORE SIGNIFICANCE THAN
THE COLOUR OF HIS EYES
THAT UNTIL THEIR BASIC HUMAN RIGHTS
ARE EQUALLY GUARANTEED TO ALL,
WITHOUT REGARD TO RACE
THAT UNTIL THAT DAY,
THE DREAM OF LASTING PEACE WORLD
CITIZENSHIP AND THE RULE OF INTERNATIONAL MORALITY

SPEECH BY H.I.M.HAILE SELASSIE I
(CALIFORNIA, 28TH FEB 1968)

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